富士山の神社

富士山の神社

富士山の神社:御挨拶

その流麗・優美な姿で日本の象徴とされる霊峰・富士山。麗しい山容とともに活火山である富士山は、古来より霊山として遥拝の対象でした。浅間大神の鎮まる山として畏れ敬われる存在で、特に、富士山の頂きは浅間大神の御神域でした。

伝承・記録としては、日本武尊が東国の夷を征伐するため駿河国を通られた際、賊徒の野火に遭われます。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐され、篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。平安時代前期には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討の東征の際、戦勝を祈願して富士山を遥拝し、戦勝後、神恩に感謝して社殿を造営したとされています。その後、坂上田村麻呂の東征と前後する延暦19~21年(800~802)には北麓に大きな被害をもたらした延暦噴火、有史最大の貞観17年(875)の大噴火の鎮祭のため甲斐国八代郡浅間神社が祭祀されました。富士山麓の神社の多くは、この歴史に由緒を求める神社さんが多いのですが、延暦噴火以前に創建されたとの伝承を残す神社も数多く残されています。

中世になると、浅間大神の本地仏が大日如来であるとの本地垂迹説が広まるようになり、久安5年(1149)には末代上人が、富士山頂上に大日寺を建て、富士登山信仰の素地となります。大日寺は程なく頽廃しますが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになり、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、江戸期の富士講の隆盛を待つこととなります。

戦国時代末から江戸時代初めに大きな役割を示したのが長谷川角行です。長谷川角行は浅間大神の御在所とされる人穴に籠もり、悟りを開きます。そして修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説き、江戸を中心に広がり、江戸時代中期には富士講へと発展して富士登山は急激に増えていきました。

明治以降、神仏分離令・廃仏毀釈により仏教の色合いは薄れることになりますが、富士山登山の人気はより一層高まるところとなり、登山者が押し寄せるとともに、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録されるところとなっています。

富士山の神社:静岡県側

「富士本宮浅間社記」によれば、第11代垂仁天皇3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。その山宮浅間神社に祭られていた浅間大神を、水徳をもって噴火が静まるよう富士山の神水の湧く地、現在の湧玉池の地主神であった富知神社の旧地に遷座したのが富士山本宮浅間大社です。以降、富士山本宮浅間大社は浅間神社の起源・総本社として崇敬を集めています。

富士山本宮浅間大社の鎮座する富士宮市、そして富士市には富士山本宮浅間大社とその重要な摂社・末社、富士山の信仰とその歴史における重要な神社が集中しています。

また、静岡は南に開けた表富士として三保の松原をはじめとする景勝地、須山・須走・御殿場口といった東からの登山道の拠点としても崇敬を集めている地です。

富士山の神社:山梨県側

江戸期以降、急速に富士山登山の拠点として人気の集まるところとなった山梨県側。貞観17年(875)の大噴火の鎮祭のため祭祀された甲斐国八代郡浅間神社とされる各論社をはじめ、明治まで富士吉田市一円の総鎮守の産土大神であった小室浅間神社(下浅間神社)、吉田口の起点北口本宮冨士浅間神社など重要な神社さんが数多く鎮座しています。

富士吉田市を中心に富士山登山のハイライトとも言える、見事な御来光を見ることができる吉田口登山道があること、富士五湖などの見所が多いのも人気の高い理由のひとつです。

延暦19~21年(800~802)の大噴火、貞観17年(875)の大噴火により周域の湖が堰き止められたり消失されたことなどから、記録としては不詳ではあるものの、それ以前にその創建が遡る神社も多数あります。

木花咲耶姫のふるさと

天孫の瓊々杵尊との間に神子をもうけ、神武天皇に至る系譜の元となった木花咲耶姫命。その木花咲耶姫命が富士山の御祭神である浅間大神とされています。

浅間大神がどのような経緯で木花咲耶姫命と同一視されるようになったのか。国津神の子を身篭ったのではないかとの疑いかけられ、自らの潔白を晴らさんがために産屋に火を放ち、三柱の神子をお産みになった故事から火の神、火を静める、鎮爆の神とされたからとされていますが、諸説あり、興味の尽きないところです。

その木花咲耶姫命の御実家、出身地とされているのは南九州です。その南九州と富士山との繋がりを辿ると、伊勢神宮もまたその繋がりの中から見えてきます。偶然(?)とは言え、非常に印象深い“こと”。