富士山の神社

富士山の神社:福地八幡宮

御祭神

祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)
合祀渡辺綱命(わたなべのつなのみこと)

由緒

応神天皇の皇子の阿計日登王(あけひとおう)こと、明仁王は誉田別天王の即位5年7月(205)、山守都の司となり、これより大山守皇子と称し、天皇の勅命によって阿祖山大神宮の宮司を命ぜられ、皇弟の隼総別皇子(はやぶさわけのおうじ)、根鳥皇子、大臣・武内宿禰の一男の羽田八代宿禰と共に福地山(ふじさん)北麓に土着するようになりました。

応神天皇の崩御の後、祖母の息長足姫命こと神功皇后のの遺品の弓矢等を宝物として、御父の霊を福地軽島大神宮と申し、現在の大明見の阿田都山の日向に祀り給わりました。

崇峻天皇2年(589)6月、御年18才の厩戸皇子(聖徳太子)が来麓し、三ヶ月ほど滞在して再建します。その時に高座山西麓の白蓮滝に祀られていた寒川神社を軽島大神宮に合祀し、寒川大明神と改称されました。また、高座山の寒川神社の跡には白蓮寺を建立し、百済人の日羅によって建立された行満寺の奥の院と称されました。

文武天皇の大宝元年(701)6月には、勅命により福地八幡大神と改称。光仁天皇の宝亀5年(774)6月には、勅命によって阿祖山大神を先元(浅間・阿様)大神と改称されました。

延暦19年(800)、福地山大噴火のため、人家はもとより神社・仏寺に至るまで焼失しましたが、延暦21年(802)8月に福地八幡大神を再建しました。平城天皇の大同元年(806)に、勅命によって福地山を富士山と改称されました。貞観6年(864)、富士山大噴火によって再度焼失しますが、翌年の12月に再建されました。

合祀されている渡邊大明神(渡邊源次綱)は、下吉田仲町地内に鎮座する神様で、富士北麓開発の御先祖である渡辺姓一族の苗字懸けとして崇敬されてきました。弘仁元年(810)、 渡辺綱は、坂田金時(金太郎)、浦部季武、臼井貞光と共に摂津源氏の源頼光に仕え、数々の鬼退治伝説を残した源頼光の四天王の一人です。その渡辺綱が崇拝する福地八幡宮参拝の砌り、暫時の間逗留して武弓農法等を伝授したと伝えられています。その渡辺綱の徳を子孫に伝えるため、福地八幡宮に合祀され、今日に至っています。

また、昭和36年(1961)、本殿移築の跡地から恵比寿様に似た石像が出土したため恵比寿大神として祀られています。現社殿は昭和55年9月に再建されたものです。

写真

鳥居

鳥居

手水舎

恵比寿大明神

社殿

狛犬

社殿

社殿

社殿

境内

情報

住所〒403-0004
山梨県富士吉田市下吉田5178
創建応神天皇5年
例祭9月5日~6日
関連 大明見小室浅間神社(相殿に福地八幡大神社を合祀)
大明見小室浅間神社・旧社

地図・マップ

地図・マップ