富士山の神社

富士山の神社:冨士根本宮村山浅間神社

御祭神

中座木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
左座大山祇命(おおやまつみのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
右座大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)

由緒

冨士根本宮村山浅間神社は、明治の初めまで京都の聖護院を本山とする修験道の拠点で「富士山興法寺」と称した村山興法寺三堂を構成した堂社のひとつで、「富士根本宮」、「七社浅間」などと称された古社です。

社伝では孝昭天皇2年(前474)に富士山中腹の水精ケ岳に創建され、崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701)に役行者により現在地へ遷座されたと伝えられています。

平安時代末には、村山修験の祖とされる僧の末代(富士上人)が富士山を山岳修行の場として選び、富士山の山頂に大日如来を主尊とする大日寺、村山に伽藍を造営して富士山村山修験の元を開きます。鎌倉時代には僧の頼尊が村山で富士行を創始し、富士修験の道場として発展します。室町時代以降、周辺にはいくつもの坊がつくられ、村山口富士登山の拠点として、山伏(修験者)を先達とした多くの富士道者(登山者)を集めます。また、登山期間が終わると、山伏は各地を回り、火伏せや虫封じ・安産などの祈祷をしたり、お札を配るなどして教えを広めました。

安永8年(1779)、富士山興法寺が保持していた富士山八合目以上の支配権が富士山本宮浅間大社に移譲されますが、山頂の大日堂の帰属は保持し続けます。江戸時代末まで興法寺の修験者たちが大宮・村山口登山道を管理しました。

しかし、明治に入り、神仏分離令を受けた廃仏毀釈によって興法寺は廃され、大日堂と浅間神社は分離されます。そして富士山興法寺が管理していた富士山山頂の大日堂は富士山本宮浅間大社に売却されて富士山本宮浅間大社奥宮とされ、同様に山頂の薬師堂は久須志神社と帰属が移り、改称さました。村山浅間神社は、本殿には境内社の富士浅間七社を相殿とし、中座に木花咲耶姫、左座に大山祇命・彦火々出見命・瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀りました。境内の末代(富士上人)を祀っていた大棟梁権現社は氏神社として高根総鎮守社となりました。

現在の大日堂は間口五間、奥行七間の入母屋造りで、平成27年(2005)に修復されました。明治7年(1874)の廃仏毀釈運動により多数の仏像が戸締めされますが、多くの仏像が散逸。現在は、大日如来坐像3体(胎蔵界2・金剛界1)・不動明王像2体・役行者倚像1体と後鬼・前鬼のどちらか(破損が激しく像容不詳)1体が安置され、水垢離場や護摩壇なども残され、今も富士山興法寺大日堂と浅間神社を合わせて祭る神仏習合の姿をとどめています。

明治39年(1906)には、村山を経由しない富士宮口登山道が開設され、登山道は使用されなくなりましたが、当地から始まっていた村山口登山道は最古の富士登山道で、村山道と称されています。

写真

大鳥居

大鳥居

境内

二之鳥居と社殿

社殿

社殿

拝殿

社殿

社殿

高嶺総鎮守(大棟梁権現社)

高嶺総鎮守(大棟梁権現社)

富士山興法寺大日堂

富士山興法寺大日堂

水垢離場

護摩壇

情報

住所〒418-0012
静岡県富士宮市村山1151
創建孝昭天皇2年(前474)
社格県社 [旧社格]
例祭8月16日
関連 富士山頂上浅間大社奥宮(元大日堂)
久須志神社(元薬師堂)
富士山本宮浅間大社

地図・マップ

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